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メンセツの達人 [日常(学校)]

先日、高校の推薦入試が行われました。これは一般入試とは違って、スポーツ分野や文化分野でのクラブ活動や課外活動の実績で出願し、面接と小論文で選抜するものです。私立学校なら、どこもよくやっている形態の試験だと思います。

今年度の入試では、なんと主任面接官を拝命(!)。ウチの場合は、1グループ5人の教員で1人の受験生を面接をするんですが(合計で10グループに分かれる)、その「まとめ役」ですね。

小論文試験のあと1時間ほどで面接が始まることになっていたのですが、担当者の発表と資料配布がこのタイミングなので、昼食や何かしらの別の仕事で慌しくしている合間に、業務内容や受験者についての資料を読んでおかなくてはならず、これがかなり忙しい。

この「資料」というのが曲者で、何よりも受験者の「活動実績」についての文書の量が膨大すぎて、1時間程度では全てを読み込むのは不可能なほどのボリューム。

そのうえ、業務内容の説明書には、面接での具体的な質問項目や具体的な評価基準が一切書いていない。書かれているのは、「入学後、出願分野での活動を続ける意思の確認をする」、「受験者の良い面を引き出せるような質問を考えろ」という趣旨の指示と、「悪い(1)」~「非常に良い(5)」までの5段階の評定のみ。細かいことは、面接官の裁量で?!…いいのかなあ。

とにかく、責任者は、資料をもとに具体的な質問内容等を(自分で)考えなくてはいけない。但し、役所からの通達による「避けるべき質問」(例えば、「愛読書は?」というのはダメ。思想・信条の調査と解されるため。)もあったりするので、結局、「自己紹介」、「志望動機」、「本校でどんな高校生活を送るつもりか」の3つの質問を中心に、適宜補足の質問していくというお決まりパターンで行くことにしました。

実際やってみるといろいろ忙しくて、ごちゃごちゃと質問している余裕が私自身にありませんでした。責任者は(自分を含め他の)面接官の質問と受験生の応答をすべて記録しなくてはいけないのです。相手の話を聞きながら、ペンを走らせる。でも、受験生の話を聞きながら下を向くわけにはいかないから、自ずと書くスピードはあまり早く出来ない・・・。結局、事前に考えておいた質問をして、その応答を聞くだけで精一杯。受験生の応答に対してさらに掘り下げる質問は出来ませんでした。それでも、私は意地悪なんで笑、多少は(中学生にとっては)難しい質問をしてみたりした場面もありましたが。

ただ、この面接、資料も満足に見られていないうえに、事前打ち合わせも(実は)皆無、質問内容は自由、という、いわば出たトコ勝負みたいな感じになっているので、主任面接官としては、他の人が何を質問するのかは、全く予想がつかないわけですね。これには参りました。例えば、ある在校生と出身校が同じ学生に「(本校には)○○という(君の先輩にあたる)人がいるけど、知ってる?」というような、意図不明な質問が出てきたり、挙句の果てには、特技が中国語とかいう学生に、「面白そうだから自己紹介とかちょっとやってみてよ」と、実演させるも、中国語はその子の出願分野(スポーツ)とは全く関係なかった…などなど。

この推薦入試の面接は一体何だったのか?と、突拍子もない発言を止められなかった主任面接官としての責任を感じつつ、考えています。

「英語の授業は英語で」―新学習指導要領案(高校)に思うこと [外国語教育]

昨年末に話題になりましたが、新しい高等学校学習指導要領案のなかにこんな一節が現れました。

英語に関する各科目については,その特質にかんがみ,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを基本とする。(出典:文科省HP http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/news/081223/002.pdf

で、一部の報道によると、これはかなりの賛否両論を呼んでいるとかいないとか。「理解度に差があり英語で授業は無理」「苦手な生徒がますます英語から離れていく」「大学入試の英文は日本語で説明しなくては時間のロス」などなど、現場のセンセイたちの困惑(と反発?)の声を紹介していました。

さて、この問題、様々な視点から議論は可能だと思いますが、私個人としては、今回のハナシの1つの大きなポイントは、「言語材料を教授(学習)する場としての授業」という考え方ではなく「目標言語の使用経験を積む場所としての授業」という考え方を、語学授業の基本コンセプトとして(今まで以上に明確に)突きつけてきた、ということなのではないかと思っています。

だとすれば、文科省のいう「コミュニケーション」を念頭に置いた英語の授業は(可能な限り)英語で行うのが望ましいと思いますし、むしろそうあるべきだと、私は考えます。

このブログで前にも指摘しましたが、英語で授業を受けるということは、ひとつの(限定された意味にはなりますが)authenticな、つまり、彼らの学校生活に根ざしたプラクティカルな目的のある英語使用経験であり、これを週3~4時間程度(年間120~160時間ぐらいにはなるでしょうか)であっても持たせてやることは、ここ日本において学習者が英語を「使う」機会が皆無である以上、非常に大切なことであると思うのです。授業時間が、その言語を使う(わなくてはいけない)状況としての役割を果たすということなのです。

ただ、ここで、間違えてはいけないのは、この「使用経験」は、無条件に言語材料の「学習」につながるわけではないし、「定着」につながるわけでもないということです。

個々の語学教師が相手にする学習者は様々で、それこそ、「bとdの区別がつかない」からnear-nativeレベルまでいるわけで、その点、文科省も当然バカではないので、

「生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする」(文科省HP)

と但し書きを付け、「どの程度、英語で授業するかは現場の判断に任せる」(毎日新聞、12月22日)としています。

つまり、「是が非でもAll Englishの授業」と言っているわけではなく、どういう授業をデザインするかは結局のところ、実際の学習者を前にした語学教師がアタマを使って考えなさい、ということなのだと(私は)思います。

英語だけで教える授業はいきなりやっても成立しません。そんなことは当たり前なのです。最終的な目標を「授業時間をコミュニケーションの場とする」なら、そこにいたるまでは効果的に母語を使用しながら、授業のなかで、その目標を達成する素地作りを年度の初めから計画的に行う必要があるのです。

具体的にいえば、将来的に活動指示を英語で出しかつスムーズに活動を展開したいなら、その指示のバリエーションをしっかりと教え込まなくてはいけない。(英語で展開される)授業の中で使う表現や文法等は事前にしっかりと教え込んでおかなくてはいけない。また、生徒が教師の質問に適切に応答するためには、基本的な問答パターンのドリル練習も必要だし、適切に発音するためには、発音の知識、言語材料の音読練習は欠かせません。

結局、「教授(学習)する場」としての授業と「使用経験を積む場」としてのそれは決して相反するものではなく、お互いを補完するものと考えるべきで、言語材料についての「教授(学習)」(これは日本語でも構わない)を全体の授業設計の中にうまく織り込みつつ、授業中に行われる教師と生徒、生徒同士の英語によるやり取りという「使用経験」が「定着」に貢献するような仕掛けを年間計画のなかで作ることが肝要だ、ということなのでしょう。

まあ、冷静に考えてみると、こんなことは、教えるプロとして必要不可欠な授業デザイン力の基本的な部分であって、これが出来ないということは「教師としての技量と見識がない」ということに等しいことになるのではないでしょうか。

今回の学習指導要領は、「英語で授業をする力」云々と同時に、これまで(無批判に)言語材料の教授のみに終始してきた語学教師の「授業力」を問うているようにも見えてなりません。

遅ればせながら

新年明けましておめでとうございます。

昨年9月に開設して以来、心赴くままに、いろいろなことを書き散らしてきました。このブログの存在を特に宣伝するわけでもなく、また、日々の忙しさにかまけて、更新も数えるほどしか行っていないにもかかわらず、現時点での累計アクセスが1,400を超え、意外にも多くの方々に訪問していただけているようです。大変ありがたく思います。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

紀要論文の執筆 [日常(学校)]

別に書かなくてもいいんですが、これでも研究者崩れなので、日々の英語を教えるという業務のほかに、専攻分野の論文などを書いたりしています。とはいえ、専任になってからは、いろいろな雑用に忙殺されて、査読付きの学会誌などに投稿して・・・というような具合にはいきませんで、学内紀要に掲載するものにとどまっているのが現状です[あせあせ(飛び散る汗)](それでも、手前味噌になりますが、ウチの研究紀要は、そこいらの中学・高校の同種の雑誌よりは、内容的にレベルは高いと思いますし、刊行物としてもしっかりしたものです。中高レベルの紀要では珍しく、ISSNも取得しています)。

私は、論文を書くにあたっては、原則英語で書くことをポリシーとしています。理由はいろいろあるのですが、英語科の外国人教員を含めて読者を想定していることが大きいです。あとは、分野の性格上、英語で書かないと資料価値が半減してしまう(←自分で言うのはおこがましいのですが)ことでしょうか。まあ、ウチの場合、英語で書くと、学内の日本人読者の数が半減、いや、全滅してしまうというパラドックスがあるんですが笑。こればかりは、どうしようもありませんね。

今回も英語の論文を1本掲載することになっていて、現在、校正中です。学内紀要の場合は、校正といっても査読論文と違って、誤植の訂正以外も可能だったりします。初校の段階でいろいろ気になることが出てきて、結構、加筆修正してしまった(編集委員の皆さんごめんなさい)。文章を変えたぶん、ネイティブの再校閲が必要になるので、ちょっと大変でした。

おまけに今回は、共著論文も1本(ただし、こちらは日本語)載せることになっていて、こちらも同時進行で校正しなくてはいけない。筆頭著者なもんで、最終的な作業は全部私の担当ということで、論文作業には例年より余計に時間がかかっています。

これだけ労力をかけて書き上げても、別に出世するわけでも給与が上がるわけでもありません。残念なことに、「論文なんて書いてる暇があったら・・・」と批判される可能性すらあります。

じゃあ何で書くのか?まあ、端的には、「書きたいから」ということになります。もう少し言えば、自分の(現場での)実践なり経験、思考を、(アカデミックな)「コトバ」を使って記述し、分析し、整理をしておきたいから、ということでしょうか。あるいは、ただのteacherではなく、teacher-researcherでありたいという私自身の願望もあるのかもしれません。

いずれにしても、自分の力の及ぶ限りクオリティの高い研究を行い、その成果を日々の教育実践に織り込んでいけるように精進するのみですね。

申し渡し [思ったこと]

毎年、この時期になると、成績があまり・・・の生徒に対して、「留年警告」の申し渡しを行います。まずは、対象者全員(保護者の方も同伴)を一同に集めて、学年担任団からの「説教」、そのあとで、個別に三者面談という流れでやっています。今年度は、学年全体で20人いました。

こういうところに集まってくる人たちは、色々な意味で「ツワモノ」ぞろいなので、全体会での「説教」も自ずとヒートアップしてしまいます笑。だって、進級できるか否かの状況におかれているにかかわらず、説教中に居眠りしだす者、明らかに話を聞いていない様子の者などが散見されるわけですから。

で、予想通り(いや、予定通り?!)「君たちを何とか救って、進級させてあげようと話をしているのに、その態度は何だ!」と、ついに学年担任団ブチ切れ、ということに相成りました。まあ、ありがちなパターンですね。

かくいう私も学年担任団の一人ですが、この様子を傍らで見ながら、こんなことを考えていました。

「救ってあげる」と言うけれど、果たして、教員はそんなに「エライ」存在なんでしょうかね。

だいたい、こういう物言いの裏には「勉強ができない→留年する(かもしれない)→不幸→だから救われるべき存在」というような(教員側が勝手に作り上げた)生徒像や、「生徒は教員に救われるものである」というこれまた勝手な思い込みが多かれ少なかれ隠れているように思う。

成績不振は正直言って好ましいことではないかもしれないけれど、現状をどのように捉えるか、どのような判断を下すかを決定するのはあくまでも本人(状況によっては、保護者の方も含むかもしれない)であり、この点に関して教員がツベコベ言う余地もなければ権限もないと思う(もちろん、生徒本人が判断を下す過程において、教員の(個人的)見解を求めた場合は別であるし、時には教員という立場を超えて、陳腐な言い方ですが、一人の「人間」として接することを否定するわけではありません)。

結局、教員としてやるべき(できる)ことは、事実の説明とそれに付随する可能性の指摘のみではないかと思う。今回の事例で考えれば、今の成績がどういう状況なのか、留年した場合にはどうなる可能性があるか、過去の事例を交えながら告げることであって、こちらの勝手な価値観(価値判断)に基づく「ありがたいお話」を押し付けることではない。

ある生徒が、三者面談で、全体会の感想を訊かれ、こう答えたそうです。

「まあ、眠かったすね」

ナメた奴だ、と怒り狂う前に、われわれ教員自身のスタンスをいま一度省みる必要性があるかもしれません。


1歳になったわが子 [子どものこと]

私事ではありますが、先日、娘が1歳を迎えました。

1年前が信じられないくらい、大きくなりましたね(もともとうちの子は大きめなんですが)。いまでは、つかまり立ち、ひとりお座り、寝るときには大人顔負けのイビキもかきます。まだ言葉らしい言葉は出ませんが、「いないいないばあ」の仕掛け絵本で、「いないいないばあ」めいたことを言いながら遊ぶようになりました。以前は見向きもせず、渡してもポイとほったらかしにしていたんですが・・・趣旨が理解できるようになったんですかね笑。

何はともあれ、元気で成長していってくれることが一番です。


会議の風景から [日常(学校)]

教科会議がありました。議題の中心は「中学部1年生成績不振者への対応について」という、かなり深刻なものでした。

担当者の説明によると、ちょっと大変なことになっているらしい。簡単な単語の小テストですら、1ケタ台の点数しか取れず、そのうえ追々試験まで行っても改善しない。定期試験の結果も(当然ながら)目も当てられない、といった生徒が20人程(学年全体は230人)いるらしく、英語に限らず全科目でそんな調子なので、進級が危機的状況だというのです。

このような異常事態に陥ってしまっている原因はいろいろあると思いますが、ひとつは、今年度の中1とその上の学年とは集団の学力特性が大きく異なることが挙げられます。これには、現中1からは、併設の付属小学校から無試験でそのまま進級してきた生徒が半数になったことが影響していると考えられます。

放課後補習もかなりやっているようですが、個別指導が必要な生徒も多々おり、人員的にも物理的にも、中1担当者だけで対応できなくなってきているとのこと。英語科全体としても何かしらの対策を講じてもらえないか…担当者が頭を抱えているのです。

以上のような背景があり、今回の会議にいたったわけです。

この現状をどのように打破していくのか、具体的に言えば、「成績不振者への補習や個別指導を、科目担当者レベルではなく、英語科として企画し、人員配置をしていくのかどうか」、あるいは、「学校側に少人数制や能力別クラス編成の導入を申し入れていくのかどうか」などについての建設的な意見交換が行われることを期待しつつ、私も会議に臨みました。

自分なりの意見をまとめながら、議論に耳を傾けていると、話が不思議な方向へと動いていくのに気がつきました。

「付属小は勉強する習慣が身につけさせないままに、中学に送り出している。無責任だ」
「付属小の卒業(進級)判定が甘いのではないか」
「付属小の入試がいい加減だから、そもそも能力的に不十分な生徒が入ってきてしまっている」
「小学校段階で成績不良の場合、他中学へ進学させることを、もっと積極的に推し進めるよう申し入れるべき」

などと、そこいらのオッサンの与太話みたいなことを次々に言い出すだけに終始していたのです。

一気にやる気なくしました。

我々が成績不振の生徒に対し何をするのか、という視点が全く欠けた、初等教育に責任転嫁するだけの愚痴不満大会…こんな不毛なことに貴重な会議の時間を潰してヒートアップしまう人々の見識の無さに暗澹たる気持ちになり、私は何も発言しませんでした(←こういうのが本当はダメなんですが)。何も言わなかった他の先生方も恐らく同じことを感じていたのではないかと思います。

結局、会議は「付属小に中学部の現状を伝えてもらうよう、学校側に働きかける」という、「何も話し合いませんでした」と言っているに等しい結論で終りました。一体何の為の会議だったのか…。

いろいろとネガティブなことばかり書いてきましたが、中1の現状についての情報を共有できたことは意義があったと考えます。次回の会議では、有意義な結論が得られるように、積極的にコミットしていきたいと思っています。

実力試験完成、でいいのかなあ。 [日常(学校)]

校内実力試験のリスニング問題の話は以前にしましたが、先日、リーディング問題担当者との合同会議があり、それぞれのセクションの問題の単語などの重なりを点検し、マイナーな修正を加えた上で、一応、校了ということになりました。

が、今回の問題全体の出来、特にリーディングセクションに関しては、はっきり言って、不満です。

まず第一に、文法・語法問題。出題が授業の中で使っているテキストとほぼ同一の問題を大量に出題している点。しかも、ほとんど暗記で解く問題。たとえば(漏えいになりますから、これ以下に挙げていくのは実際の問題ではなく、あくまでも例です)、There is no accounting for taste.みたいな英文が何のコンテクストも無く出てきて、同じ意味として、So many men, so many opinions.を選択肢から選ばせようとする。

でも、こんなの明らかに成立しないでしょう。そもそも、この書き換え自体に無理があるのだから。こんな単語小テストみたいな問題のオンパレードでは、生徒もテキストを丸覚えするしかありません。

さらに、こんな問題も。No one can escape fate. というのがあったとして、書き換え文There is no (     ) fate. の空所にescapingを答えさせるもの。カッコ以外のところはすべて与えられているわけだから、適当に書いても当たりそう。

極めつけはこれ。They are taken for granted. という文を、People (take)(them) for granted.(解答は、カッコの部分を答えさせる)と書き換えさせる・・・高3にもなって、こんな中学生レベルの変形操作を出題意図の中心に据えてくるとは。もっとマシなものを思いつかなかったのでしょうか。

読解問題にも「?」なものが散見されました。例えば、和訳問題。関係代名詞以下の部分にだけ下線がつけられていて、「whichが指すものを明らかにして日本語に直せ」というちょっと意味不明感の漂うものが。「本文の内容に合うものを選べ」という類の内容真偽問題も、大して本文を読まなくても解答できたりしてしまう有様。

と、ここまで書いてきたようなコメントを、リーディング担当者にぶつけてみると、何を指摘されているのかよく解っていない様子?・・・結局、欠陥の修正は一切行うことなく、そのまま「完成宣言」をして、会議は終了してしまいました。

試験問題を作り直すのが面倒くさいから、明らかな欠陥にも関わらず、わざと気づかないフリをしていたのか、本当に気づいていなかったのか。どっちにしても、大問題なのですが、後者だとしたら・・・かなり危険です。生徒に、教員集団としてのバカさ加減を見限られるのも時間の問題・・・いやもうバレているかも知れません。

今回の一件を通して、英語を教える立場にある者として、「英語力」の維持と向上を常に目指して努力を怠ってはいけない、という思いを新たにしました。

長期休暇中の宿題が・・・ [授業実践]

後期に入ってからの授業も徐々に軌道に乗りつつあるなかで、生徒から提出された教科書本文の英語による要約課題をパラパラとよみながら、冬休み中にどんなことを宿題としてさせようか、と思案をめぐらせていたところ、一緒に科目を担当しているある一人の教員が、こんなことを言ってきた。

「冬休みは、社会のレポートが大変だから、宿題は出来ない子とってはきついよ。だから、単語集の暗記だけにして、その他の課題は出すのを止めましょう」

なんだそれ。勉強が大変になっている生徒にさらに追い討ちをかけないために、という発想なのでしょうが、科目としてのハードルを安易に下げてしまうのはどうなのか。激しい違和感を覚えると同時に、憤りさえも感じます。

長期休暇というのは、たとえば、(ありきたりのパターンだと)文法・読解問題集に取り組ませたり、英語の本を一冊読ませたり、英作文を書かせてみたりなど、普段の授業での指導の中で手薄になっている部分を補強するいいチャンスと捉えるべきだと考えます。「宿題」というある種の強制力があるからこそ、英語が得意な学生(特にそのなかでも、自主的に勉強する、という意思が弱い人)から苦手な生徒まで、往々にして難しく厳しい課題に取り組むことができるのではないでしょうか。

その強制力をなくしてしまった時、いったい誰が勉強するというのか。ごく数%の英語が好きな生徒以外は、はっきり言って誰も勉強しないでしょう(もちろん、強制力が無い=勉強しない、というが常に真であるとは思っていませんが)。ましてや、うちのような大学付属校だと、なおさらです。大多数の生徒が、いわゆる大学受験はしませんから。

他教科も含めて勉強が(シャレにならないほど)大変になっている生徒が可哀想だからと、彼らのために全体のレベルを下げる必要なんて全く無い。そんなアホなことを考えている暇があったら、彼らが課題を遂行するために必要な支援はいったい何なのか、ということを考えたほうがいいし、むしろ考えるべきではないでしょうか。

科目の coordinator は、私なんですけど、いろいろ諸事情があって、あの人には、ちょっと逆らえないという…。この「諸事情」が、結構いろいろな障壁になってるんだよなあ…病んでますよ、ホントに笑。というわけで、まことに残念ながら、冬休みは、単語集の暗記以外は何も無し、ということに同意せざる得ないという悲しい結末です。

授業の哲学 [授業実践]

今年度の担当科目の1つに「英語Ⅰ」というのがあります。これは、高校1年生の、世間的には「リーダー」と呼ばれることの多い科目です。うちの学校でも、この科目については、読むという側面を重視して教えられています。まあ、学習指導要領的には、読解だけではなく、聞く、話す、書くことも含めたすべての技能を指導することを視野に入れた科目のはずなんですが。

私と他2人の教員で担当しているのですが、そのうちの1人と話していたときのこと。いま扱っているレッスンについて、こんな質問をされました。

「知覚動詞+目的語+原形不定詞の受身の形はここで教えておきますか?原形不定詞が受身ではto不定詞になることを注意させないといけませんね」 

「この学年の生徒は仮定法をどの程度知っているのですか?教科書のなかに出てくる、直説法の if なんですが、仮定法との違いを説明したほうがいいですか?」

正直言って、この議論は私にはピンと来ませんでした。今回のレッスンの教材研究をするにあたって、こういう観点は、「無」でしたから。文法研究の詰めが甘いと言われればそれまでですが、次のようなことを考えました。

私はこの科目の授業をどのように進めているかというと、先日も少し書きましたが、英語によるOral Introductionや、生徒と教師との英問英答によるやり取りを中心として、なるべく英語のままで読解のポイントとなる部分を理解させ、最終的には文章の内容を英語で要約させるところまでやっています。

もちろん、文法や語彙・イディオムの解説、日本語訳も(しっかりと)つけますが、あくまでも授業の焦点は「英語から英語で情報を読み取りまとめる」、つまり「読解」(←限定的な意味ではありますが)ということにあります。

だから、教材研究も、読解発問、読解のポイントの提示順序、Oral Introductionにおける、新出単語や表現などの平易な英語での言い換えと補足説明、英語による背景知識の説明、などを考えるのに時間が費やされます(文法研究も行うのは当然のことです)。

授業では、本当に必要不可欠な文法事項(や単語)以外は、本文を「読解」しているときは細かく立ち入ることもないし、場合によっては一切触れないときもあります。ましてや、文法的な変形操作を「読解」の最中にやることなどありませんし、反意語やら派生語やらを黒板に脈絡無く羅列することもありません。内容理解に貢献するものだけを厳選して取り上げているつもりです(もちろん、このプロセスで省略されてしまった事項は、本文がすべて終わってから、必要に応じて別に時間をとって丁寧に解説を施しますよ)。

で、最初のハナシに戻るのですが、結局、私ともう一人の教員は、授業に対する視点というか、議論の立ち位置が全然違うんですよね。一方は「文章」の内容(要旨)を読み取ることが思考のスタート地点。もう一方は、外国語の「文」を解読して、日本語とも照らし合わせながら意味を理解していく、というプロセスが中心に考えられている(と推測)。

よって、教材研究のスタンスも全く異なっているのではないかと思うのです。

これは、どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、授業を通して何がしたいのか、何を重視しているのか、生徒にどういう知識や技能を身に付けてもらいたいのか、根本的な部分での授業観の違いであって、ある意味、交わることの無い議論のような気がします。

でも、担当者間で授業コンセプトのベクトルが「ねじれの位置」って、ちょっと微妙なんじゃないか、という疑惑が。。。ただ、授業観というのはその人の教師としてのアイデンティティーに関わる部分かもしれから、議論しにくいよなぁ・・・と思ったりする今日この頃です。
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